ひさしぶりにプロトタイプつくるような仕事をいただき、やっている。こういう感じのもの、というぼんやりしたところから、考えたり手を動かしながら具体化していくのは楽しい。そのもの自体のおもしろさがどうというよりも、こういうプロセスが個人の経験として楽しいからできてる感じがする。
自分は1人だとあまりものごとを進められないというか、結局のところ誰かに見せてそれいいじゃんというようなフィードバックがないと集中してやれない。どうしてもじわじわ進めてはウーンと考え込む、忘れた頃にまたじわじわやり出す、ということになりがち。それはそれでいい面もあるし、いいかんじに発酵してくれて形になっていくこともあるのだけど。結局は納期かな。
スマホでコード打つの、かなり革命的だ。布団に潜りながら仕事ができる。あれとあれ、ちょっとした改変しないと、みたいなことはぼーっとスマホ触る延長で作業できる。仕事から帰ってきて今日はもう終わりだよみたいなところからいかにPCをかばんから取り出し机に向かうか、そしてYouTubeとかに流れずにコードエディタを開けるか、という勝負になってくるわけだが、そういうものを迂回して直接リポジトリに触ることができるのは大きい。
iPhoneの画面サイズ的に全体を俯瞰して大きな変更を加えたりというのには向かないんだけど、ワンブロックすでに頭の中にある簡単な機能を追加みたいなことはやりやすい。
「ライティングの哲学」とかで千葉雅也さんがいかに書かずに書くか、ということを言っていて、それはつまり「書く」と「書かない」という二分法でなく、書くことと書かないことのあいだはシームレスにつながっていて、色々な「書かない以上書く未満」みたいな行為の蓄積によって書くことは成り立っているみたいなことなんだと思う。
そういう意味でもシェルのワンライナーとかデイリーコーディング、gist、スニペット、sc140みたいな小さくコードを書く行為はいいなと思う。もりもりの高機能エディタでも、標準のテキストエディタでも、なんなら手書きでもよい。自炊してる?みたいな感じでコード書いてる?私はたまにかな〜みたいな世になっていいと思う。論理的思考がどうとかいうよりも、普通に明日から生活に役立つ(人によるが)んだからやったらいいと思う。
料理でたとえると、包丁を持つとか、肉に下味をつけるとか、茄子のアク抜きとか、そういう小さな料理っぽい行為が積み重なって料理という営みを構成していて、それらの要素を磨いたり、すこし変化させたり、組み替えることで自分なりの料理をやっていく。魚の種類がわかったり、好きな野菜の切り方がある、ブロッコリーは冷凍のものを使う、いもはとにかくチンする、といったような、「自分なりのやりかた」を自覚しつつ増やしていくというのはひとつの人間的な豊かさのように感じる。俺だったらこうするね!っていうのはそれがそのまま表現になっていて、好きだ。マテリアルや手法なのかな。
香山哲さんの漫画が好きで、最近まで連載してた「プロジェクト発酵記」という作品は漫画の連載の準備を漫画にして連載するというものなんだけど、めちゃくちゃよいのでみんな読んだらいいです。最近ベルリンうわのそらもようやく買った。他者としての自分にどう向き合うか、ということについて考える。自分というものがあり、その周囲に他人と並列に他者としての自分がある。1番近い他人は自分なのかもしれないということだ。ありがたいね。
去年くらいに勉強して二種電気工事士の資格を取った。電気について勉強したかったのと、インフラとしての制度や規格に興味があった。電気は物理的な現象だが、電気が発電所から家庭へ供給される仕組みや、そこで用いられる規格化された設備や部品は社会的、制度的なものであり、そういう要素を制作に取り入れたいと思っている。まず資格がないと家庭の電気設備には触れることができない。電気というめちゃくちゃ身近な現象は、実はめちゃくちゃ制限されている。もちろん不用意に触れることは危険だからである。資格を取ってそこに介入することで、生活の中に根を張っている制度的なものをハックすることができるようになる。
311の原発事故による計画停電、最近でも夏場になると電力が不足し節電の呼びかけが行われる。半導体や樹脂部品の不足。情報技術によるパーソナルファブリケーションがもたらしたものづくりに対する全能感は技術だけではなく、社会的、政治的なものに支えられてきた。われわれがものをつくるという行為の裏にはそういったものごとがぴったりと張り付いている。電気というあたりまえのインフラと社会について考える必要があるなあと思った。