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日報2023-01-05

January 05, 2023

休みが減ってきた。1週間も家にいて仕事しないでいると、無職的というか、外部のサイクルに振り回されることない過ごし方が身についてくる。 初めはとにかく怠惰に過ごす。そうしていると元気が湧いてきて、本当の意味でのやりたいことをやるぞ、という気持ちになってくる。 自分のタイミングで起き、食べ、コンビニへ行ったりする。決してネガティヴな意味でなく、そういう感覚はとても大事にすべきものだと思う。

そろそろ仕事へ意識を向けていく必要が出てきたね…

年始は色々読めたな。文章を読むのは得意ではない…日常的に読んでる人はわざわざあれを読んだとか言わないのだろう。エイヤと気合を入れて読むのでなく気付けば読んでいるという状態にもっていく。読まずに読むということ。 読むということはとても基礎的なスキルであるがゆえに、暗黙のうちにわれわれは文章を「読めてる」ということにされているが、自分があるテキストを「読めてる」ということを確認できる機会はそれほどないんじゃないか。実際、インターネットでコンテンツに対し素朴に感想を述べている人たちが本当にそれらを「読めて」、「観れて」いるのか疑問に思うことはよくある。Amazonのレビューなどみていると同じ人間でもこれほど見えている世界が違うのかと思う。それは自分では観測できないし、同じことが自分にも起きているのかもしれないと思うと恐ろしい。

福田美蘭のインタビューを読んだ。福田美蘭かっこよすぎるな。新作のレゴの花を書いた作品とかすごい。マネ展行けばよかった。

表象の聴覚文化論特集に掲載されているスターンの論文を読んだ。買っといて良かった。やはり音と聴取とメディアに強く興味がある。 スターン「聞こえくる過去」の冒頭でも言及されている、「誰もいない森の中で木が倒れた時、音は鳴るのか?」という有名な問いがある。これはジョージ・バークリーが著書「人知原理論」の中で示したものとされているが、実際のところよくわからないようだ。空気の振動が人間の耳に届き、感覚器官を通して知覚する現象を音とするなら、知覚する主体がいない状態においては音は存在していない、と考えることができる。 今日コンピュータ上でシミュレーションされる世界において、音という現象はどのように存在できるのか?そこに振動を媒介する媒体は存在せず、多くの場合サンプリングあるいはシンセサイズされた音の波形があるトリガーによって電圧の動きとして出力される。 たとえばある物体と物体が衝突するシミュレーションを行うとして、その衝突音はどうしたら聞くことができるのか。両者に設定されたコリジョンの衝突判定をトリガーとしてあらかじめ録音されたサンプルを再生するというのが一般的な方法だろう。しかしそれは恣意的なもので、物体の衝突と衝突音との間には何の繋がりもない。なんかいろいろあるけれど、それは果たして音なのか?というのには疑問がありそうだ。

みたいな話を考えていて、どうにか作品作りたいと思っている。さまざまな知見が足りなく、難儀している。あとパソコンの性能が良くないためUE5などのゲームエンジンが使いにくいのもあるな。UbuntuにUE5をいれたが、起動にありえん時間がかかる。

千葉雅也の「アメリカ紀行」面白かった。

色々書かないといけないのがあるな。

音楽について、心のどこかに、だから何なんだというのがある。100%まっすぐに音楽というのは存在している!と断言できないし、ドだかレだかミだか知らないが…というのがある。一方で普通の人よりかは音楽は好きだし演奏することもある。言い方は悪いけど共同体における共通認識としての音楽、茶番的なノリとしての音楽にノれているときは楽しく、気持ちがいい。音楽の場合、そのノリとか枠組みというのが無数にあり、あるノリにノることはべつのノリから降りることでもある。そのチグハグさ、不安定さを見てしまうと結局なんなんだよ、という気持ちにもなる。もちろん好き嫌いはある。


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