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日報2023-04-11

April 11, 2023

やっほ〜

なんかもう限界ブログみたいにしようかな。意味とか全部無いほうがいいんだから。

土井善晴先生おみそしるの映像をみてからというもの、とりつかれたようにおみそしるについて考えている。 一汁一菜でよいという提案も読んだ。

たまごを入れたら大抵おいしなる、おいしなるというか食べた気いになるからね。

土井先生は明確な理論と経験が体に染み付いててそれがことばとしてにじみでてくる、という話しかたをするのがとてもよい。感覚的に話しているようですべてがロジカルに言語化されている。これはジェイコブ・コリアーが音楽そのものが人間の形をしているというのとほとんど同じですよ。

おみそしるの世界はかなり合理的で、お味噌汁という形式によって料理、食事が成立する。具、水を鍋に入れ日にかける。味噌を溶かし入れ煮立たせる。具材に何を入れたとしても、このプロセスがすべてを回収しお味噌汁は完成へ至る。額装することによってあらゆるものが作品になるような。ジョゼフ・コーネルは箱という形式によってどのような具もお味噌汁に仕立て上げる(ジョゼフ・コーネルは千葉雅也のトークで知っただけなので、あまり知らない)。もう食べれるから火をとめる、味が決まらないからといってあれこれ手を加えない、という有限化の装置としての一汁一菜。「でよい」というのはそう捉えることができる。

そして、火をとめることは料理の「中断」でもある。

「具を煮込むうちに煮汁が少なくなってしまうこともありますが、味噌汁から味噌煮込みに、また味噌煮という煮物に変わってゆくのです。」(「一汁一菜でよいという提案」p.67)

鍋の中の水分量は時間とともに減少していく。ある点(お味噌汁)から別の点(味噌煮)へと移動していく。これは「料理の四面体」でも言われていたことだ。水、空気、油、火を頂点に持つ四面体の上を点が移動していくモデルだ。 ある料理に完成という明確な点は存在せず、ある点からある点へと向かうどこかの地点で移動を止め、それを良しとする。というのが調理なんですね。作りすぎてしまった場合、残しておいてさらに水分を飛ばして煮物にしても良いしうどんやごはんを入れちゃってもいい。どうでもええんですわ、ということに尽きる。

やきいもパターて。

あ、

そう、こういうお味噌汁のおおらかさ、というところを最近は大切にしていて、それは電気やコンピューティングにおいても通ずるところがある。もはや料理と同じくらい、いやそれ以上にコンピュータサイエンスは生活の一部ですから。わたしたちとあなたがたの間にある窓を開けて、顔を浸してご覧なさいよ。やさしくね。という気持ちでやっていきだ。いや、そんな気持ちは無いけれど。

0か1か、わかれば後はなんだっていいよ、というバイナリの思考はある意味おおらかなものだ、と思う。二項対立や二元論的なこととは違くて。こういうことを考えている。


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